失敗して学んだインコの育て方 最終「いのち」

『失敗して学んだインコの育て方 最終「いのち」』

 

先日、約10年間、一緒に過ごしてきた雌のインコが亡くなりました。

時が止まったかのように固まっていました。

嚙む力がとても強い子で、

指を噛まれたときは、

跡が残るほど痛かったです。

 

 

飼っていていろいろな学びがありました。

ほとんど私になつくことがありませんでしたが、

最後の1年間は、

少しだけ触ることができました。

 

今は、

「いのち」について少しだけ考えてみたいと思います。

 

この世に生きている

私たちや動物、植物はみな、

1つ以上の「いのち」があり、

生きているものからし

生まれません。

 

この「いのち」はどこからきて

どこへ行くのでしょうか。

 

聖書を紐解くと、「いのち」は、

神様が私たちを創造したときに与えてくださったのです。

「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2章7節)」

 

では、「死」は、

アダムとエバがとってはならない実を食べ、

神様に謝らないで言い訳した時に与えられました。

「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章19節)」

 

もし、

すぐに謝っていたり、

その実を食べていなかったりしていたら

おそらく違う結果になっていたでしょう。

その時は、

私たちに「死」というものが与えられてい無いため、

神様のように永遠に生き続けられていたことでしょう。

 

また、

聖書のほかの箇所を読むと、

イエス・キリストを信じる者には

永遠のいのちと、

神の国を相続するものとしての権利を与えると約束しています。

神様の子どもとして受け入れるという意味にもなります。

 

それは、

アダムとエバの罪によって与えられた「死」

を取り除き、もともと、

永遠のいのちをもっていたときと

同じように戻るだけでなく、

罪を赦され、

神様のように聖くしていただける

ことを指しています。

 

限りあるいのちは、限りあるものから生まれ、

永遠のいのちは、永遠のいのちをもつものから生まれます。

 

しかしなぜ、

神様は、「とってはならない実がなる木」を創ったのでしょうか。

それは、

私たちにも神様と同じように「自由」をもつためです。

「自由」とは、選択することです。

 

もし、選択することができなく、

本能だけで生きていたとしたら、

自由と言えるでしょうか。

 

これは、「悪い」。

これは、「良い」。

を識別し選択して行動できることこそが「自由」なのです。

 

「自由」を与えてくださったのは、

それほど私たちを祝福し愛してくださっていたからにほかなりません。

そうでなければ、

自分に似せたり、

人だけ言葉を話せるようにはしなかったはずです。

 

私たちは

動物や植物よりも、

もっともっと神様に愛されているのです。

 

 

インコのお世話で、

餌を与えていましたが、

主人には噛みつくことは、

悪いことだとの認識は全く見られませんでした。

動物には、

善悪の識別はしていないと思います。

 

ある意味この世は、本当の世界ではなく、

私たちの本当の実家は、

神様のところにあるのです。

 

ぜひ、

イエス・キリストの信仰をもち

神の国で、神様とともに食事ができることを願います。

yui